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星霜移り 大学セミナーハウス50周年記念

セミナーハウスも設立から50年になる。50年とは半世紀だから[星霜移り]と言ってもよいだろう。設立以来運営に関係していたのは、たぶん、もう私一人だけだろうから、個人的な感慨を述べさせていただきたい。[敬称 略]

設立委員会には東大教養学部学生部委員として参画した。以降、各種セミナーの運営委員や評議員、最後は[南紀に転住するまで]常任理事として中川秀恭理事長の職場の綱紀粛正の熱意に協力して少なからぬ時間を費やした。
設立当初のハウスの周りの景観は、今でも昔の面影が十分残っているが、緑の丘陵に囲まれた別天地であった。
185号ニュースのメッセージで芳賀徹が述べているようにセミナーのたびに[しきりに通った若葉の光の中のハウスは愉快な]討論啓発の時間と場所であった。緑の木陰あるいは深夜の灯光の下で、専門を超えた諸先生や大学の隔てのない学生諸君との果ない討論や懇親に時が過ぎた。最初の設立委員会では、労働法の闘士の少壮教授が、大学が財界の支援を受けるのは[大学の自由の理念に反する]と激しく反対した。現在望まれている、社会と大学の関係からは、想像もつかないことで、まさに昔日の感である。

表題の[星霜移り]は、ご存じ有名な旧制高校の寮歌の一節で、この後には[梶とる船師は変わるとも、我が乗る船は常へに、理想(の自治)をさして進むなり]と続く。
理事長・館長はじめハウスの運営者は当然つぎつぎに変わる。ハウスがめざして進む理念は何であろうか。それは[50周年記念事業のビジョン1]に簡潔に明記されている。それは変わらないだろうし、今後も変わる必要はない。
このような理念が実現され、50年も運営されているのは、たぶん世界でも稀ではなかろうか。
私は偶然、初代の石館守三をはじめ、茅誠司・増田四郎・川喜田愛郎など初期の理事長とハウスと別の関係で親しくさせていただいていた。それぞれの専門分野の磧学と、ハウスの縁で、改めてお付き合い出来たのも楽しかったが、ハウス運営の実務になるとそれなりの問題があった。理事長の私宅に招かれ夜おそくまで、学問と無関係の次元で、苦慮を重ねたこともしばしばあった。

改めて言うまでもない事だけれど、ハウス設立の第一の功労者は飯田宗一郎である。彼は真摯なクエーカー。今の茨城県つくば市の出身。上州人に似た人情と一徹な人柄で、同志社で学び、創意に溢れていた。東京女子大の事務長の後、当時設立されたICUの初代学生部就職部長であった。
ICUの学生部に勤めていたのも学際的な教育への視野を広げるのに役立ったであろう。大学間の交流をめざした[大学セミナーハウス]の設立を思い立ち、現在の八王子市下柚木の地に思いを定めた。その狙いは的確であった。
今では、このような広大な用地の取得は不可能であろう。

財政面では、主に三井銀行の頭取佐藤喜一郎が長く強力な援助をし、飯田自身も募金に奔走した。大学関係では、茅誠司や石館守三が幅広く協賛した。飯田はICU を辞し、一家[八千代夫人・能子・恵の姉弟]をあげてハウスの建設に献身した。
今でも鮮明に思い出すのは、1965年の開館記念の第一回共同セミナーである。講師は西谷啓次・山内恭彦・中村元。セミナー担当は川原栄峰[早大 哲学 比較思想]・三枝充悳[国学院大 仏教学 比較思想]・鈴木皇[東大・上智大 物理]。
川原と三枝は仏教に詳しく僧籍にあり、私は三枝と高校の同級、川原とは早大関係の知友。三人とも相いついでドイツに留学し、研究はドイツ系であった。このような知り合いなので、ハウスで出会った以降も、親交を温めた。

PRに応じて集まって来た学生は既存の大学の枠にあきたらず、進取の活気にあふれていた。学生たちは、飯田の熱意と独特な人情に魅されてハウスのファンになった。
創意豊かな飯田は、建物や運営に、次々と新しい構想を打ち出し、来館者を楽しませ元気づけた。山小屋を模した一人用のユニットハウスは斬新であった。しかし新しい構想は、それなりの不便を伴い、身障者の利用には不適で問題を生じた。幸い現在はアトリエとして活用されている。
[千人会]も飯田の秀れた創案で、参加者の協力の意欲をもり立て、現実にも少なからぬ寄与をしている。
創設の初期、私も、用事があったとはいえ、都心からはかなり離れた八王子のハウスに、よくもしばしば、通ったものである(前に引用した芳賀のメッセージ)。私は正月休に家族で泊まり込んで、子供たちに[お書き初め]の練習をさせた事もあった。

通館仲間であった芳賀徹は比較文化学の重鎮で美術館長などを歴任しておられるが、当時は東大駒場の少壮教授で、私とは、勤務が同じだけでなく住居がごく近かったので、夜おそくなったセミナーの帰りには、しばしば同行して歓談した。なお、ここで特記しておきたいのは、この時期の学生との交流への山内恭彦の大きな貢献である。山内先生とは風貌と気質が少し似た、芳賀と私は先生を深く敬愛し、学生との歓談に同席した。山内先生は独特の信条から、東大退職の後は、上智大で物理の講義を受け持たれていた他一切の管理職を(単なる名誉職でも)厳しく拒否されたが学生との交流には率先参加された。先生の学識の深さや極めて厳しい言動を全く知らない学生たちは臆することなく先生の身近で学んでいた。これこそセミナーハウスの理念であり実践目標であった。

創設期は目標を上回る成果を達成した。誰でも、新しい事業に携わると、新しい熱意に燃えて熱心に働く。しかし創設が過ぎて定常的な実務を遂行する場合は、それなりの問題が生まれる。特に、大学関係で、職員の数も少なく、大会社や工場のような牢固たる組織体制がない職場では、個性が働く。首脳部は兼任で常駐しない。そして、運営が円滑でなくなる。創立者が独創的で強力な場合に、現場の対応が微温的に思われる。ともすれば、創立者の独善が表面に出て、確執が生まれる。兼任の首脳部には舵取が容易ではない。残念ながら、まぎれもない、そのような兆候がハウスにも現れてしまった。山内先生と私は、飯田に直接忠告助言したが、耳をかしてもらえなかった。私は、飯田の功績を高く評価し、彼の人柄も知悉しており、一方、上智大では教職員組合の委員長も勤め、現場の職員の苦労も理解していたから、中立で和解にかなり努力したが、全く効果はなかった。しかし、飯田と私個人との交友は変わらなかった。創設期に、家の庭の椿の大木を寄贈したら、代わりに、武蔵野の情緒を偲ばせる[ソロの木]を移植してくれた。
結局、創設の功労者であった飯田はハウスを去り、中村元先生の英知で[三輪学苑]と名づけられ、ハウスと似た[学苑]を主宰する事になった。それはそれで良かった。

幸い、定常状態になったハウスは、諸大学の連携支援が確立されたので、財政的には安定し、学際的また社会との交流は、ますます必要性を増し発展を続けている。しかし、言うまでもなく、設立の時代と情勢は一変している。大学の学制や組織も大きく変わり、社会の大学に対する要請はグローバルに変転する。そして、なによりも、学生の気質や大学に対する期待も、半世紀前とは全く異なっている。
当然、セミナーハウスは、このような事態に柔軟に対応しなければならない。しかし、学問の真理の追究と教育[この意味も検討を要する]の真締の把握は、万古不易であることを忘れてはならないであろう。大学セミナーハウスのさらなる発展を期待する。(2015年10月10日 南紀にて)
大学セミナーハウス元理事・評議員、上智大学名誉教授、千人会会員
鈴木 皇