法人のご案内

設立の由来

大学セミナー・ハウスが開館したのは、1965(昭和40)年7月5日のことであったが、何事も一つの構想が具体化するには、そこに至る前史がある。戦後の教育改革によって発足した新制大学は、学生数の急速な膨張に伴い、その規模は拡大し、人間形成を主眼とする一般教育の理念は、現実との隔たりから多くの矛盾と困難を経験することになった。
こうした大学の変容の中に、大学セミナー・ハウスの種子は胚胎したのである。飯田宗一郎(現・名誉館長)は「私は既成の概念から離れて、自分の目と自分の心と自分の頭でもって、大衆の中の孤独という寂寥さや不完全な学生生活が起り易い大学の教育的環境を問い直してみた。セミナー・ハウスの構想がそこから浮かびあがった」と記している。(『大学を開く』11頁)。
この構想が単なる個人の意見に終ることなく実現した背景には、次のような先達の存在があった。飯田は、「1月3日(注.1959年)、新年に当り私の心は動いた。おぼろげながら教師と学生との心の交流をつくる合宿研修センターの如き施設をつくりたいという構想がまとまったので、第三者に問うてみようと思うようになった。上代たの先生に長文の年頭所感を書き送った。これが私の考えを他人に持ち込んだそもそもの初めである」、そして「1月18日、日本女子大学に上代学長を訪ねる。私は大いに語ったらしい。先生は打てば響くように共感を示された。その結果この計画を推進するために、国立大学側から茅東京大学総長に仲間入りしていただくことが絶対に必要である、ということになった」と記している。こうして2月27日に茅誠司、3月6日に大浜信泉を訪問し、両者の賛同を得たのである。
一方、大学社会の中にハウス建設の気運をつくるため、教授クラスの協力者を求め、1959(昭和34)年11月25日、四谷の福田家でハウスの構想をいわば公に協議する初めての会合が開かれた。これには、上代、茅、大浜、飯田の他に、有志教授6人が出席し、当面の課題である建設資金をめぐり話し合いがなされた。
当時、大学は安保闘争下で騒然としており、総長の任にある者は大学の内外に発生する事態に対処するため、心労と多忙にあけくれていた。その後、この計画は進展を見ることもなく一年余の月日が過ぎたが、1961(昭和36)年7月21日を契機に、実現に向かって大きく前進することになった。この日、茅、大浜、飯田は三井銀行会長・佐藤喜一郎を訪ね、建設資金の募金運動に対する協力を懇請した。「どうしてこの人を探し当てたか、と問われれば天の声というほかはない。…(略)…さすがに財界の大物であった。この施設が国立・私立の共同使用に供するという点に大きな共鳴を示されたのには敬服した」
同年8月18日には、佐藤喜一郎の呼びかけにより、財界有志による大学セミナー・ハウス建設懇談会が開かれ、11月1日、三井銀行本町支店ビル内に、財団法人大学セミナー・ハウス設立準備事務所が開設された。法人設立の母体となる発起人校として国公私立の有力大学13校(注.本文35頁の「協力会員校一覧」参照)を選び、その協力を要請した。幸いにして参加の承諾を得、11月30日に財団法人設立発起人会の開催をみるに至ったのである。翌年1月には建設用地を都下南多摩郡由木村に決定、3月31日財団法人設立許可が下りた。一方で財界側の協力体制も出来上がり、9月19日に大学セミナー・ハウス建設後援会創立総会(代表世話人・佐藤喜一郎)が開かれ、3億円募金がスタートすることになった。
こうして足掛け4年に及ぶ飯田を中心とする募金陣容による“募金行脚”が始まるのである。

全景(2005年4月8日撮影)

建築落成当時全景(1965年撮影)