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大学セミナーハウス開館50周年記念によせて

大学セミナーハウスの関係者の皆様、50周年の誕生日おめでとうございます。

1966年に大学セミナーハウスが創設されてからもう半世紀の歳月が流れたことを思うと、深い感懐を禁じえません。思い起こしてみますと、私が大学セミナーハウスとお近づきになったのは1974年のことでありました。

創設後わずかに10年にも満たない、セミナーハウス草創の時期に当たります。1971年に国連日本政府代表部勤務から帰国して外務省国際連合局政治課長の職にあった私は「国連の当面する課題」をテーマとした大学共同セミナーに招かれて、「日本と国連」というセクションを担当したのです。国際基督教大学、津田塾大学、東京外語大学、東京大学など多様な大学から参加した若い皆さんと一緒に週末の一夜を語り明かしたのがつい昨日のことのように思い出されます。(このセミナーで識りあった学生の一人が、最近まで国連日本政府常駐代表として活躍して来られた吉川元偉国連大使だったのもセミナー
ハウスがとり結んだ奇縁でした。)

日本での単調な大学生活を終えて英国のケンブリッジ大学で過ごすことになった四年間の経験は、私に大学とはいかにあるべきものかということについていろいろと考えさせる契機となりました。大学間の相互交流の機会がきわめて乏しかった当時の日本の状況の中で、大学間の枠を超えて若者たちが切磋琢磨しあう場を提供するこの大学共同セミナーの場は、私にとって極めて新鮮な驚きだったのです。

この大学共同セミナーを創設するという構想をほとんど独力で企画し推進されたのが飯田宗一郎先生であったことは、私どものよく知るところです。このときの体験に深く感銘を受けた私は、その後何度かセミナーハウスにお招きを受け、また飯田宗一郎先生の知己を得て大学というもののあり方について語り合い、大学セミナーハウスの設立に至る歴史についてお話を伺い、考えをともにするComrade-in-arms の一人となったのです。その後も、岡 宏子館長のお手伝いをして何回かの大学共同セミナーに参画したこと、また私の東大国際関係論学科の学生と一緒にこの多摩下柚木の丘で過ごした週末の集中セミナーのことなどを懐かしく思い起こします。

このような飯田さんの熱い思いと並外れた行動力と、それに加えて飯田さんの高い志に深く共鳴されてその理想実現に不可欠だった基金の実現のために尽力を惜しまれなかった当時の三井銀行社長佐藤喜一郎氏の献身的なコミットメントとがなかったならば、この事業は実現しなかったでありましょう。今こうしてさくら館、国際館、交友館さらには新食堂棟と発展した校舎群を見ると、40年前のことを思い今昔の感に堪えないものがあります。さらにそういう外見的な変貌だけではなく、大学間の枠を超えたインターカレッジの学生交流の思想が着実に根づきつつあることに深い感銘を覚えるのです。

世界が政治面でも経済面でもグローバル社会として一体化しつつある今日、逆説的に聞こえるかもしれませんがそれだからこそ、歴史、風土の異なる社会の中で人々が作り出してきた異なった文明、多様な文化の間の接触から生まれる相互作用が我々の生活をいっそう豊かなものにしているということが言えると思うのです。狭い縦割り社会の中で、いわば「均質の調和」の文化の中で生きてきたこの国の人々が、異なった社会に存在する多様な考え方、感じ方に触れることは、これからの日本がグローバル化する世界の中で生きてゆくために最も大切なことではないでしょうか。そして、そういう感受性を錬磨する上で重要なのは、大学であれ、職域であれ、また地域であれ、民族であれ、異なった社会集団に固有な文化的土壌の間での交流、いわば「文化における他流試合」を活発にすることではないかと思うのです。

大学セミナーハウスがそうした他流試合を実践する場として今後ますます大きな役割を果たすことを心から期待いたします。
大学セミナーハウス元顧問、国際司法裁判所裁判官、千人会会員
小和田 恆